言われて美鶴は決まり悪そうに口を尖らせる。
「一応、謹慎中だからね」
「その謹慎中が、こんなところで何?」
見上げると、円らな瞳が悪戯っぽく光る。瞬きに揺れる睫が、まるで朝露に光る蜘蛛糸のように雨露を弾く。少し細められても十分黒々とした宝石のような双眸。右手を顎に添え、首を斜めに傾け、幼子の悪戯を咎めるかのように、少しだけ笑いながら覗き込んでくる。
カッと、頭に血がのぼるのを感じた。
怒りではない。では何だ?
「何でもない。瑠駆真には関係ないっ」
ぶっきらぼうに言い放ち、相手を押し退けるように両手を伸ばして看板の陰から飛び出そうとした。
途端に目眩を感じた。
ふらつく身体を瑠駆真が受け止める。
「美鶴っ?」
ヤバいな。
額を押さえながら、まずそう思う。
空腹で貧血? そう言えば、昨日からロクなもの食べてない。聡と瑠駆真が持ってきたジュースや菓子以外は、何も食べてないんだ。
もともと美鶴の食生活はあまり健全ではないから、空腹だけで不調になるのには疑問だ。精神的なものもあるのだろうか? 昼間は晴れていたのに午後からの急な雨。寒暖の差も影響しているのかもしれない。
それに、自分の生い立ち。
「美鶴?」
自分を押し退けようとする美鶴の弱々しい手を押さえ込み、瑠駆真は美鶴の額へ手を当てる。
「なんでもない」
美鶴がそれを払いのけようとするが、瑠駆真の掌は大きすぎる。
「熱は、ないようだけど」
言いながら自主的に掌を離し、代わりに両腕で美鶴を支える。
「濡れてる。体温が下がったのか?」
「大したことない」
「この状況でそれはないだろ」
左腕で美鶴を強く抱え込み、右手でポケットの携帯を取り出した。
「とにかく帰ろう。送ってく」
言うなり瑠駆真は、携帯を操作した。
バスルームから出ると、瑠駆真はリビングで窓ガラスと向かい合っていた。物音に振り返る。視線が合うと、少し眉根を寄せた。
「大丈夫?」
「ん……」
短く答え、ぎこちなさを感じてリビングを離れる。自然と足がキッチンへ向き、なんとなくマグカップを手に取った。
何もしないなんて、間が持たないよ。
どうしても飲みたかったわけではないが、とりあえずコーヒーの瓶に手を伸ばす。自分の分だけ用意し、だが結局は振り返る。
「コーヒー飲む?」
「ん? あぁ ありがとう」
仕方なく、もう一人分用意した。
両手に一つずつのマグカップ。一つをテーブルに置くと、すぐさま瑠駆真は手に取った。
一口啜って、ふと笑みを零す。
「何よ?」
「ふふっ、美鶴にコーヒー入れてもらうの、これが二回目だなって」
「あ」
美鶴は思わず視線を外した。
まだ出会って間もない頃だったと思う。いや、間もないどころか、学校で出会ったその日の出来事だった。
帰り道に襲われた美鶴を心配して、瑠駆真と聡が部屋に押しかけてきた。美鶴はしぶしぶ、二人にコーヒーを出した。
あの頃はまだ、下町のアパートで暮らしていた。ヘタれた鍵一つしかない木造アパートに女の二人暮らしは危険だと言い張り、結局一晩、二人を泊めてしまった。
美鶴を襲った人間は、覚せい剤を使用していた。唐渓で数学を教える教師も絡んでいた。美鶴は危うく殺されそうになった。
マグカップになみなみと注がれたミルク入りのコーヒー。暖かくて、ホッとする。なのにどことなく落ち着かない。
そうか、最初にコーヒーを出したのは、瑠駆真と再会した日の出来事だったのか。
再会―――
あの時は、初対面だと思っていた。
瑠駆真を一目見ようと廊下で騒ぎ立てる女子生徒の騒ぎに巻き込まれ、無様に転倒した。大丈夫かと声を掛けてきたのが、瑠駆真だった。
午後の陽射しを浴びて美しく輝く黒髪が印象的だった。彫りの深い顔立ちと引き締まった顎。今と、ほとんど変わらない。
視線を向ける先で、瑠駆真が一口飲み込む。
「うん、美味しい」
笑うと華が咲いたように周囲が明るくなる。だが、どことなく儚げでもあり、常に柔和なその物腰を引っさげて登校すれば、あっという間に唐渓の女子生徒の約半分を虜にしてしまう。
もう半分は聡に取られてしまったようだが。
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